髪結いの憂鬱 5 - 髪結いの憂鬱    
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髪結いの憂鬱 5



 つくしは暗闇の中で大きく息を吐くと、軋む足をゆっくり曲げて立ち上がった。
 眩暈が襲って後ろに倒れそうになり、慌ててシンクの淵を掴む。


 雑草のつくしが……すっかり弱くなったな……。


 自嘲気味に笑うと……窓から入る月明かりに照らされて……床に置かれた書類が目に入った。
 さっき司が置いていった書類だった。


“いいか、つくし。落ち着いたら必ずその書類を見てくれ”
“………俺は……このクソみてぇな関係を終わらせる”


 無意識に手に取り、中に入っている書類を確認した。
 封筒に入っていたそれは……婚姻届だった。


 夫の欄には既に司の署名があった。


 つくしは胸を衝く衝撃と共に……何かが音を立てて崩れ去っていくのを感じた


 恐らく……自分の気持ちを司に知られてしまったのだろう。
 だからこうやって牽制されたのだ。
 強引にキスされ……恥辱を受けた。
 愛する女がいるはずなのに、なぜあんなことをしたのか疑問だったが……要するに罰を与えたわけだ。


 「結婚するから近寄るな」


 ーーーーー そういうことね。



 ふつふつと……表現できない何かが……ずっと抑え込んでいた何かが……沸き立ってくる。


 それは怒りだった。
 全身の毛穴という毛穴が締まり鼓動が早まり顔が上気し口が乾く。


 堪え切れず、彼女は手に持っていた婚姻届を渾身の力で引き裂いた。


 人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!


「あっっっっっっったまきたーーーーーー!!!」



 叫んだ瞬間。
 どこかでスマートフォンの呼び出し音が鳴った。


 シャツの前身頃を片手で引き合わせたまま、つくしはキョロキョロと周囲を見渡す。入り口近くのカウンターにチカチカ光る機体を見つけた彼女は急いでディスプレイをタップした。


 発信元を確認せずに。


「お待たせしました。牧野でござ……」


〖………つくしか?俺だ〗


 耳に響くバリトン・ボイス。


 いつもは心地よく鼓膜をなぞるその声も、今は不快な雑音にしか感じない。黒板をひっかいた時に鳴る、あの音みたいに。

 無言のまま切ろうとした時、その雰囲気を察したのか、珍しく狼狽する男の声が響いた。
〖待て、つくし!切るな! 切ったらお前の家まで行くぞ!〗


 寸でのところで指が止まる。

 家に来る?
 冗談でしょ?!

 怒りを鎮めるため2.3回深呼吸すると、平静を装いつつ厳格な口調で告げた。


「…………要件は何でしょうか」


〖会いたい。今すぐ〗


「無理です」


〖無理じゃねぇ!〗悲鳴に近い怒声だった。〖お前は勘違いしてるんだ。俺は……〗


「聞きたくありません」


〖言いから聞け!この…強情女!〗


 つくしのこめかみに数本の青筋が浮かんだ。頬が細かく震えている。
「ごうじょう……おんな……?」


〖てめぇが俺の話を黙って聞かねぇからだろ?! いいか、よく聞けよ!俺はけ……〗


「あたしが強情女なら、あんたは何なのよ?! 痴漢!変態!」


〖な……んだと?〗


「自分なら誰に何したって構わないとでも思ってんの?! 冗談じゃないわよ!! この夜郎自大!」


〖や……やろー……?〗


「いい?よく聞いて。あたしはね、あんたが蔑んで好き勝手していい女じゃないの。あたしは牧野つくしで、道明寺司なんてこれっぽっちも怖くないんだから! おとといきやがれッ!!」


 勢いのまま通話を切る。心臓が音を立てて激しく鳴っていたが、得も言えぬ爽快感があった。



 い……言ってやった。



 思えばずっと我慢していた。
 司に対する後悔と罪悪感がいつの間にかつくしから、大切な“自分らしさ”を奪っていた。


 5年の間に何でも黙って言うことを聞いていたわけではないが、普段の4割程度に留めていたのは事実だ。


 雑草を舐めるんじゃないわよ!


 鼻息荒くスマートフォンをカウンターに置いた時、再び呼び出し音が鳴った。
 つくしの眉が跳ね上がる。


 しつこい!!


 指が乱暴に“応答”をタップした。
「いい加減にして! このクソナルシスト!」


 一瞬間の沈黙の後。


 電話口で爆笑する男の声が響いた。
 呆気にとられディスプレイを確認すると、そこにあったのは司の名前では無かった。肩で息を吐き、つくしは低い声で唸る。
「………西門さん。笑いすぎ」


〖……だ、だってよぉ……“ナルシスト”って……道明寺司に言うか?フツー……しかも“クソ”って……〗
 総二郎は息も絶え絶えの様子だ。途中でヒッという喉に張り付いた声まで聞こえてくる。


「うるさいわね。なんか用なの?」半ば呆れてつくしが問うた。


〖その……“クソナルシスト”からの伝言だよ〗


「………は?」


〖お前、もう29だろ?高校生のガキじゃねーんだから……話ぐらい聞いてやれよ〗


 つくしはやっと状況が飲み込めた。あの俺様男にしては、随分と形振り構わぬ真似をするものだと……少しだけ動揺した。
「話なんて……今さら何を聞くっていうのよ……」


 向こうで盛大な溜息が聞こえた。
〖司の結婚。ありゃガセだ〗


「………………え?」


〖“え?”じゃねぇよ。司はあの令嬢と結婚しねぇしする気もねぇ。わかったか?〗


 繰り返される総二郎の言葉が信じられない。
 目が点になったまま、1ミリも動けない。


「だって……“おめでとう”って言ったら“サンキュー”って……」


〖あいつ、本社の副社長就任が決まったんだ。TVのニュースぐらい見ろよ〗


「ええッ?」
 それは初めて聞く事実だった。混乱に拍車がかかり、口の中の水分が一気に蒸発する。
「で……でも! 結婚式のこと聞いたら出来るだけ早くって言ってたじゃない!」


〖“結婚式”じゃなくて“就任式”な。 お前らホント……メンドくせぇ……〗


「じゃ……じゃあ、あの婚姻届は?!関係を終わらせるって、どういう意味よ?!」


〖知らねーよ!! んなの、司に直接聞け!〗


「ちょ……直接って……」


〖メープル・トーキョーのエグゼクティブにいるって……お前に伝えろってさ〗


 聞いた言葉が信じられずに、息を止めた。


 僅かな沈黙の後、それまでとは違う優しく諭すような総二郎の声がした。
〖牧野。 お前、今までスゲー我慢してただろ。この際だから、全部ぶちまけちまえ。溜めておくと老けるぞ〗


「…………」


〖………ったく。なんで俺がこんなことしなきゃなんねーんだ? 類じゃあるまいし〗


「………ごめん。西門さん」


〖二度としねーからな。司にも言っとけ〗
〖………それとな〗


「……何よ」


〖”オットコドッコイ”って何だ? お前……司に高尚な言葉使うなよ。笑えるから〗



 唐突に通話は切れた。



 つくしはスマホを持ったまま、苦笑する。
 ”夜郎自大”の方はスルーしたわけね。




 ………まったく、変わってないわ。道明寺司。





 気が付けば、冷え切っていた心にほんのりと……明かりが灯っていた。




 つくしはゆっくり深呼吸する。
 動悸は収まってきたが、頭はまだ少し混乱していた。








 結婚……するんだと思ってた。
 だから幸せかと聞いた。




 彼が嬉しそうに頷いたから……すごくショックで……でもそれでいいと思えて……。




 だけど結婚しないって?
 じゃあ、あの婚姻届けは?










 メープル・トーキョーのエグゼクティブ。
 そこにあの男がいる。









 ーーーーー この際全部、ぶちまけちまえ。


 総二郎の静かだが凛とした声が、何度も頭を過る。



 そうだよね。
 我慢していたのは事実だもん。
 


 あたしはあたしらしく……そうしてみても……いいのだろうか。
 もう一度。



 つくしは奥のスタッフルームで敗れたシャツを脱ぎ、カットソーに着替えた。



 顔を洗い軽く化粧をして身支度を整える。
 そうして車のキーを握りしめると気合を入れて店を出た。

 







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  • 2020/05/18 (Mon) 17:33
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  • 2020/05/18 (Mon) 13:24
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