結婚のススメ 29



 張り詰めた空気は、翔太が放った一言で霧散した。


「何って、見ればわかるだろ」
 当てつけるように、翔太はつくしを抱く腕に力を込めた。
「告白してるんだ。邪魔しないでくれ」


 入口に立っていたあきらは無言で2人に歩み寄ると、翔太の腕を掴んで引き離した。プロのアスリートも面食らうほどの、凄まじい力だった。


「ガキが調子乗ってんじゃねぇぞ」


 その声は静かだったが、瞳には青白い炎が見えた。
 明確な殺意が、そこには在った。

 普通なら尻尾を巻いて逃げただろうが、水樹翔太は並の男では無かった。

 あきらの手を振りほどき、後ろで震えているつくしを守るように立ちはだかった。
「言っただろ?」「邪魔すんな」


「てめぇ……」


 あきらが一歩、前に踏み出した瞬間、つくしが翔太の影から出てきた。「……やめてっ!」

 可愛そうなほど青白い顔をした妻を見て……感じたのは自分の不甲斐なさと……猛烈な嫉妬だった。


「あきらさん……」


「話は後で聞く」「……帰るぞ」


 力任せに手首を掴まれ、つくしは声を上げそうになった。だがあきらは腕を引っ張ったまま、長い足で歩き出す。
 あと1分でもここに居たら、翔太に殴りかかってしまいそうだった。一度箍が外れれば、恐らく自分でも制御できない。その自覚があったから、すぐにでも立ち去りたかった。


 ……しかしその背に、声がかかる。


「あんた、知らないだろ」


 立ち止まるつもりなど無かったのに、あきらの足は自然と其処に留まってしまった。


「宮内浩美がつくしに会いに来たこと」


 掴まれた手から、あきらの驚きと憤りが伝わって来て、つくしは思わず身を竦ませた。こんな形で知られてしまうなら、自分の口から話した方が良かったと思った。


 しかし全ては……後の祭り、だ。


「あの女がつくしに何をして、何を言ったか。あんたは知らないだろ?そんな男がどの面下げて”夫”だよ」


 憤怒の形相で振り返ったあきらの体を必死に押し留めながら、つくしは悲鳴のような声を上げた。
「翔太君‼」「……止めてっ‼」


「イヤだね」翔太は挑発的な態度を崩さない。「現実を知ったほうが良い。あんたたちは別れるべきだ」


「黙れ!」「……あきらさん!」


 今にも翔太に飛びかかろうとする男を、つくしは必死になって止めた。2人が本格的に殴り合えば、お互いタダでは済まない。万が一、トップアスリートである翔太に怪我を負わせてしまったら、あきらの社会的評判は地に落ちてしまうだろう。


 そんなことは、絶対にさせたくない。


「2人とも止めて‼」
「あきらさん……一緒に帰ろう……お願いだから!」


 食い縛った歯の奥で、あきらは唸り声を上げた。怒りのバロメーターは既に振り切れていたが、しがみつくつくしの身体の震えが彼の理性を繋ぎ止めた。


「………」
 彼は無言で、再び細い腕を掴んだ。


 去り際、翔太が何かを言ったような気がしたが、あきらは敢えて耳を閉ざした。




*★*――――*★*




 マンションへ向かう車の中……あきらは一言も話さなかった。
 ただ骨が軋むほど強い力で、つくしの手を握っていた。


 極限まで張り詰めた空気が体全体を圧迫し、つくしは息をするのも辛かった。


 ……あのパーティーの時ですら感じなかった、あきらの凄まじい怒り。それが伝わって来て、ただただ恐ろしかった。


 彼が何を想っているのか。
 自分が何と答えるのか。


 想像できず、怖かった。






 玄関に入ると、あきらはリビングに向かった。
 繋がった手が離れた瞬間、彼女はソファーの上に倒れ込んだ。


「………あきらさ」「本当なのか?」


 凍てつくような眼差しが、鈍い光を放ってこちらを向いていた。


「さっきの話……浩美がお前に会いに来たって、本当か?」


 圧倒的な迫力の前に言葉が出ず、つくしは頷くしかなかった。
 あきらは美しく細い指でウェーブがかった髪を掻き毟り、乱暴に問うた。


「いつだ?」


「………」


「もしかして、俺たちが結婚してすぐ、か?」


 彼女の顔色が変わった。それが答えだった。


 ーーーーー 瞬間。
 襲ったのは、理不尽な怒りと疑問の渦だった。


 本来なら、つくしを気遣うべきなのに……その時のあきらは、感情をコントロールする術を失っていた。





 今朝の言葉を、反省していた。自分のことを棚に上げ、彼女を追い詰めるような言葉を吐いてしまった。
 すぐに追いかけようと思ったが、なんとか耐えたのは……つくしを信じたかったから。


 翔太に会いに行くのは仕事だからだ。彼女が愛しているのは自分だと。
 だから待っていようと思った。


 しかし。



 ーーーーー そうしたくて、やっている。



 去り際に聞いたつくしの言葉が、頭の中でリフレインし……気づけば彼女を探していた。
 結果……見たくも無かった真実を、突き付けられた。





 誕生日に一緒に居たいのは、水樹翔太なのか。
 



 激しい嫉妬が歪んだ妄想を生み、彼から冷静さを奪っていた。








「……どうしてっ‼」
 怒声が薄暗い室内に反響する。
「どうしてすぐ言わなかった⁈ 言ってくれたら……俺は……」


「……ごめんなさ……」


「他に何を言われた?何を見た?」


「あの……」


「言えよっ‼」


 ビリビリと振動する空気が、毛穴から入り込む厭わしい感覚。それに耐え切れず、つくしは口を開いた。

 浩美が初めて訪ねてきた時のこと。
 SNSを通し、大阪やサンノゼで2人が一緒に居ると知ってしまったこと。
 そして……


「………最近、送られてきて……」


「何が、だ?」


 つくしは強く目を閉じた後、意を決してスマートフォンを取り出した。ディスプレイをタップし、音声ファイルを起動する。
 スピーカーから漏れだしたのは、男女の声だった。



〖私たち……別れるべきじゃないかしら?〗

〖馬鹿言え〗

〖あなたはつくしさんを選んだのよ。これは彼女に対する裏切りだわ〗

〖それ以上、余計な事を言うな〗

〖あきら……〗

〖……愛してる……別れるつもりはねぇ〗

〖それ本気?〗

〖本気だ〗

〖……嬉しい〗



 あきらは驚きと怒りを通り越して、激しい眩暈を覚えた。無論、言った覚えのないセリフだ。
 恐らく何処かでした会話を録音され、良いように編集されたのだろう。


 SNSにUPされていたという画像は既に削除され、見ることは出来なかった。だが大阪にもサンノゼにも、浩美は来ていないし、無論会ってもいない。


 

 しん……と鎮まり返った室内。呼吸の音すら聞こえない中、あきらの胸に去来したのは、例えようのない虚無感だった。





 分かり合える、信じ合えると思っていたのは自分一人だったのか。
 今まで示してきた想いは、彼女に伝わっていなかったのか。





 浩美が講じた姑息な手に、安易に引っかかってしまうほど、虚ろで脆いものだったのか。




 ずっと、疑われていた。
 この愛は ーーーーー




 だから離れたのだ。彼女の心が。自分から。
 とっくの昔に……愛は失せていた。





 


 あきらは強く目を閉じ、一呼吸おいてから、ゆっくり瞼を開いた。瞳に渦巻く絶望の色は、1秒ごとに濃さを増した。







「俺の電話に出なかったのは……この所為、なのか?」



 つくしは何も言い返せなかった。
 実家で昇太のリハビリをしていた一時期、通話を拒否していたのは確かだったから。

 しかしあきらの頭の中に在ったのは、もっと長い時間……吉武によって意図的に分断されていた、約一か月間だった。

 それは、2人が知らない真実でもあった。
 


「SNSの写真も、音声テープも、全部仕組まれたものだ。だけどお前は……信じたんだな」
「俺が何を言っても、無駄だった……そういうことだな?」





 あきらの声が一オクターブ低くなり、つくしは益々、苦しくなった。




 ーーーーー 信じていない。

 その言葉が唐突に、あるひとつの真実を突きつけた。




 あきらを信じなかったわけでは無い。
 自分自身を信じられなかった。



 これほど愛しているのに。
 愛されていると思えなかった。



 かつてF4と呼ばれていた彼。いつも華やかな場所で、眩しいくらいに輝いていた彼。
 自分とは遠い場所に居た彼。

 相応しいと思えず、いつの間にか壁を作っていた。

 傷つけたくないと思っていたはずなのに、守っていたのは自分の心だけだった。





 つくしは何とか必死に、自分の気持ちを伝えようと口を開いた。
 だが……数秒、遅かった。








「…………わかった」


 あきらは徐にサイドボードの引き出しを開き、紙を取り出した。
 それはずっと出しそびれていた婚姻届け、だった。


「今まで……ごめんな。離してやれなくて」
「でももう、お前は……自由だ」


 つくしの目の前で、高い音と共に……2つに裂けていく白い紙。
 まるで断末魔の叫びのようだった。


 床に落ちた残骸を一瞥したあきらは、感情の無い虚ろな顔をしたまま、無言で背を向けた。





 ーーーーー 待って。
 ーーーーー 行かないで。





 つくしの身体も声帯も、麻痺したように動かない。


 人は絶望した時、涙すら出なくなる………


 大きな瞳を見開いたまま、彼女は冷たい床の上に座り続けた。






ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

ha-to_convert_20200407172946.jpg 
関連記事

Comments 1

-

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

  • 2021-04-11 (Sun) 23:49
  • REPLY