結婚のススメ 28



 何かが壊れる時、それはいつも唐突に訪れるものだ。



 目が覚めると、つくしはベッドの上に居た。昨夜のことを思い出して、羞恥に顔が赤くなる。
 周囲を見てもあきらの姿は無く……ふと時計に目を遣り、驚いた。


 時刻は朝の10時を回っていた。
 今日は月曜日で、米倉昇太のリハビリがある日だ。約束の時間は11時。ここから車で向かっても、着くのはギリギリだろう。


 慌てて起き上がり、バスルームで身支度を整えた。化粧水で保湿して、サッとニベアを塗る。時間が無いからメイクはせず、日焼け止めだけにした。


 リビングに出ると、ソファーに座っていたあきらがこちらを向いた。つくしの顔を見て微笑んだ彼は、テーブルの上にコーヒーカップを置いて立ち上がった。


「おはよう」


「……おはよう、あきらさん……あの……」


「腹減ってるだろ?サンドイッチ作ったから、一緒に食べよう」


「……ごめん」
「あたし、今から昇太君のリハビリに行かなくちゃいけなくて……」


 瞬間。
 あきらの柔和な顔が殺気を帯びた。だが時間を気にするつくしは、そのことに気付かなかった。

 近くの国道に出て、タクシーを拾おう。
 考えながら足早に玄関に向かう。


「すぐ出ないと間に合わないから、もう行くね……」


 振り返ったと同時に、強い力で手首を掴まれた。驚いて顔を上げると、強張った男の表情が目に入った。
「あきら……さん?」


「それ、どうしても行かなきゃ駄目か?」


「………え?」


「わかってる」
「お前にとって仕事がどれほど大事か。だけど今日は……誕生日だろ?別の日にするとか出来ねぇのか?」


 つくしは強い違和感を覚えた。
 米倉会長との間に在った一件を、あきらは既に知っている……そういう認識だったから。

 彼の放った一言に傷ついたのは、その所為だ。


 ーーーーー 仕事。


 米倉昇太のリハビリを、あきらは“仕事”だと……そう思っているというのか。
 確かに事態の責任は自分にあるし、それを自ら解決するのは当然のことだが、正直に言えば頑張りを認め褒めて欲しかった。

 あきらならきっと、そうしてくれると信じていた。

 だが“仕事”だと言い切られてしまえば、何も言い返せない。


 ーーーーー ソレガオマエノヤクメ、ダロ?


 突き放されたと思った瞬間、心が凍り付いていくのを感じた。





「……誕生日でも関係ない。これは、あたしがそうしたくて……やってることだから」


 離して、といつになく強い口調で宣言し、夢中で別荘を出た。走って国道に出て、丁度やって来たタクシーに飛び乗る。
 あきらの声が聞こえたような気がしたが、振り返る勇気は無かった。

 運転手に行き先を告げ大きく息を吐いたと同時に、涙が頬を伝った。虚しさと哀しみが一緒くたになって、つくしの感情を揺さぶった。


 途方も無く、苦しい。


 嗚咽を漏らしながら、感じていた。


 もう、後戻りはできない。
 パンドラの箱が、開いてしまった。




*========*========*=======*



 
 昇太のリハビリを終え、帰り支度をしていた時、米倉老人に呼び止められた。
「良かったら、昼飯を一緒にどうかな?」


 いつもは二つ返事でOKするところだが、気分が沈んでいて何かを食べる気になれなかった。同席したとしても気を使わせてしまうだろうと思い、申し出を断った。


「そうか……残念だが仕方がない」
「年の瀬だからな。あきら君とゆっくりする方がいいだろう」


「……はい」
 つくしは何とか笑顔を返したが、それが微妙に引きつっていたのを御大が見逃すはずが無かった。


「君に、ひとつ聞いてもいいかな?」


「……なんでしょうか」


「今回の件で、君たち夫婦の間に何か……問題が生じているのではないかね?」


 核心を突かれ、つくしは動揺を隠せない。視線を泳がせる彼女に、米倉は畳みかけるように告げた。
「例のパーティーの日。私が場を離れた後、OSモバイルの宮内専務が騒ぎを起こしたと聞いた」
「実はあの時……秘書の渋谷が一部始終を見ていてね」


「………え?」


「君が傷害罪で逮捕されそうになったと知って、すぐにでも渋谷に証言させようと思ったのだが、“その必要は無い”と返事が来て……」

 つくしの顔が蒼白になったのを見ると、米倉はすぐに訂正した。

「誤解するんじゃない。直接、あきら君と話したわけでは無く、秘書同士でやり取りをしただけだ」



 米倉の言う“夫婦の問題”とは、2人の間に第三者の悪意が見え隠れするというものだった。老人から見ても、あきらのつくしへの愛は本物だ。だからこそ秘書を通じて伝えられた言葉に、作為めいたものを感じた。



 しかし、つくしの耳には、もう何も入らなかった。



 彼女の頭の中に在るのは、いつも同じ……ひとつのことだ。



 ーーーーー 本当に愛されているのだろうか。



 浩美への恋慕に心打たれたあの日から……呪縛のようにつくしの心をコントロールしている。
 一度、否定的な考えに憑りつかれると、なかなか脱することが出来ない。それが人間の性というものだ。

 彼女も例外なく、そうだった。

 周囲の忠告は全て、素通りしていってしまう。悪循環の輪の中に囚われ、身動きできない。



「つくしさん」


 突然、名前を呼ばれ、彼女は我に返った。米倉の温かくも厳しい眼差しが、こちらを向いていた。
「人間は間違えるし、よく思い込む生き物だ。だが私たちには言葉がある」
「失う前によく話し合いなさい。そうしなければ、悪意ある輩の思うツボだ」


 わかりました、とそれだけ言うのが精一杯だった。しかし頭の中では真逆のことを思っていた。


 この問題を他人の所為には出来ない。するべきではない。
 全ては自分の弱さ、焦り、欲が招いたことだ。


 それは、つくしの心の弱さでもあった。




*========*========*=======*



 
 米倉家を出た後、つくしはタクシーでスポーツセンターに向かった。水樹翔太のトレーニングが目的だった。


 元々、予定が入っていたわけでは無かったが、年明けからアメリカで高地トレーニングをする翔太に合わせ、スケジュールを変更したのだ。


 ストレッチと有酸素運動を中心としたメニューを終える頃、外はすっかり暗くなっていた。


 椅子に座ってぼうっとしていたつくしの前に、ペットボトルが差し出された。
 ゆっくり顔を上げると、苦笑いをしている翔太と目が合った。


「やめろよ、そういう顔。似合わないから」


「……ごめん」


「なんで謝るんだ?」
 翔太の口調はガラにも無く、苛立っていた。
「つくしは悪くないだろ?悪いのは……あの男だ」


「え?」


「美作あきら」


 咄嗟に違うと口に出来なかったのは、嘘を吐けないと思ったから。相手が翔太だからではなく、既に心が限界だった。
 

 つくしの大きな瞳の中に、涙の粒が溜まっていく。


 昇太は思わず、彼女の細い肩を掴んだ。「いい加減、気付けよ」
 発する言葉に熱が籠る。


「あいつは違う。似合わない」
「俺といれば……何度だって笑わせてやれる。つくしらしくいられるはずだ」


「翔太く……」


 突然、強い力で抱き締められ驚いたつくしは、抵抗することすら出来なかった。
 突き放さなければと思うのに、翔太の熱い息が首筋に掛かり、痺れたように体が動かない。



 ーーーーー 刹那。



 薄暗い室内に、聞き覚えのある低い声が響いた。
 翔太の身体越しに、声のした方に視線を向けたつくしは、驚愕に息を止めた。



「お前ら……何やってんだ」



 感情の無い昏い眼をしたあきらが、其処に立っていた。






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  • 2021-04-10 (Sat) 20:58
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  • 2021-04-10 (Sat) 20:27
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